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Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

Chiropractic 健康はカイロプラクティックとともに 

▼お坊さん


予防医学の カイロプラクティック

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坊主の存在????  坊さんは 何をしているんだ????

坊主の存在

お坊さんという存在が 必要なんでしょうか?
お坊さんの役目は 一体何なんでしょうか?
何の為に お坊さんが居るのでしょうか?

よく世間では 坊主のことを 面白おかしく話をします。
『 坊主丸儲け 』 とか『 釣りに坊主は似合わない 』 とか、 どうしても坊さんは 忌み嫌われる意味で その存在を認められています。

しかし 元来の坊主とは何を持って 坊主と言うのでしょうか?

坊主の存在は 歴史的に 何時起こったのかは判りません。
しかし 有史以前から その仕事として存在していたのは事実でしょう。

ただし、 仏教が興ってから その様に成ったということが言えますが、 しかしながら 修行僧として考えるのなら、 エジプト以前からも 神官に仕える人達も 坊主と言えるのかも知れません。

ですから 修行僧としての坊主と、 仏陀のような方の傍に居て、 その教えを聞いて 修行した人達の様な方々も 坊主として考えても良いと思います。


二千五百年以上前に、 インドの地で ゴーダマ・シッタルダー は釈迦族の後継者として生まれ、 王子として成人しましたが、 結婚した後 しばらくしてから 人の世の姿に疑問を持ち、 その後王家から抜け出し 一修行僧となり、 『 悟りへの道 』 を歩く事になりました。

彼は 王様である父親が送った クシャトリア(武人) の護衛と共に修行を続ける中で、 六年間の肉体行を行い、 その結果 体は痩せ細り、 このままでは衰弱して 死亡するのではないかと 思われるまでに成りました。

しかしとある時に、( ネランジャラ )川 の所である女性 ( チュダリア・チュダータ ) がその地方の民謡を歌っている声を聞き、 その歌の歌詞を聴いて 悟りへのきっかけを 掴む事になります。

彼は「 悟るために 今まで肉体行をして来たが、 これでは悟られぬ。 私の心の中に その糸口があるのだ 」、と直感したといいます。

その歌詞をきっかけにして、 『 中道 』 という、 心の在り方を学ぶ訳です。

それから 四十日四十夜の飲まず食わず、 八正道の確立と その実践の心の修行が 始まります。

その間に、 地獄界の連中 ( マーラー・・・かつてミカエル天使長の元に居た堕天使ルシフェル・・・を中心にした魔界の一族 )は、 シッタルダが悟らない様に、 必死に成って誘惑 ( 心を揺さぶりに ) しに来ます。

しかし シッタルダは 魔族たちの誘惑に打ち勝ち、 『 心の魔は、全て自分の心の中にある( 己心の魔 ) 』 ことを見つけ出し、 自分の心の中の地獄を 全て駆逐したのでした。

そして彼は 心が宇宙大に広がる経験をし、 「 宇宙と私の魂は 一体だ 」という 『 宇宙即我 』 という心を理解し、 大悟したのです。

そして「 人間の心は 宇宙大に広がることが出来るのだ 」 と理解出来たのでした。

そしてこの時に 心の在り方を 中道に持って行く為の方法として、

八正道 ( 正しく見・正しく思い・正しく仕事をなし・正しく生き・正しく道に精進し・正しく念じ・正しく定に入るべし )

という 心の基盤 を作るための在り方 ( 方法論 ) を確立されたのです。

しかしゴーダマが大悟し、 全て解明したところで、 彼は これからどうすれば良いのか 判らなくなってしまったのです。

その心を 一般の人に判って貰おうとしても、 果たして 多くの人々が 理解出来るかどうか 自信が無くなってしまったのです。

そして この大悟した心を持ったまま、 もうこのまま 食事も摂らないで 死のうとしました。
その時に彼は 天上界の魂・指導者達に 叱られます。

その愛情の篭もった魂たちは、 ゴーダマを勇気付けます。
そして 仏陀 となったゴーダマに、 天上界の魂は 知恵を授けます。

天上界の魂は、 ネランジャラ川で チュダータから牛乳を飲んだ ゴーダマを見て、 『 貴方は修行を忘れ、 その様なものを口にした。 私達は 貴方を王子とも友とも思わないし、 一緒に居たくない 』 と言って、 ゴーダマから離れて行った 護衛の者達の所に 行きなさいと諭しました。

仏陀 (プター) と成ったゴーダマは、 その時の心は 宇宙大に広がる魂に成っていますから、 現在・過去・未来 までを見通す心の持ち主に 成っていましたから、 そのクシャトリアが修行している居場所を 直ぐに その場に居ながらにして 分かります。

そして彼は 彼等の住む場所に行き、 彼等と問答した末、 ゴーダマと話をする内に、 ゴーダマと別れた後に 大悟 (悟った) した事を直ぐに判断し 理解出来たことで、 彼らが最初のブッダの弟子に成りました。

そしてその後に、「 やさ男=美男子 」 として日本でも名前が通っている ヤサという男が、 その次の弟子に 成って行きます。

彼は ある女性と契りを結んだのですが、 彼女が踊り子だという事で 由緒ある商人の両親に 結婚を咎められます。 その咎められたことを 苦痛に思い、 とある湖沼の麓で 入水自殺を図ろうとします。

この事件が起こることを 仏陀は既に判っていましたから、 ヤサの背後から声をかけました。 そして仏陀は ヤサの心を癒し、 ヤサはそのまま 仏陀の弟子に成りました。

そして暫くして、 ヤサを探しに来た両親が ヤサの履いていた履物を見つけ、 ヤサが自殺したものと思い、 自分達の心を咎めていました。

そしてブッダは ヤサの両親の所に行き、 真実を話し、 ヤサが仏陀の弟子に成った事を 両親に伝えます。

両親は ヤサが仏陀の弟子に成った証の ヤサの僧衣の姿を見られ、 また両親は ブッダが偉大な方であることを直ぐに理解し、 両親もその場で ブッダに帰依しました。

ヤサの両親が、 最初の 「 在家の僧 」 になりました。

ブッダは 『 在家にありて道を求む者 』 として、 在家の僧が 本来の修行者の姿であることを 常々仰っていました。

決して今に言う 坊主としての 「 僧 」 が必要であるとは 仰いませんでした。

なぜなら、 当時文盲の人々 ( 字を書いたり読んだり出来ない人々 ) が普通でしたから、 その人達の為に、 八正道を通じて 心を美しくさせる メッセンジャーとして、 修行僧 を抱えることに成られたのです。

ですから、 多くの竹林精舎で 弟子を抱えることになりますが、 その弟子たちが 仏陀の教えを聞き、 日々実践し、 そしてさもブッダが そこに居られる如くに、 仏陀の話を伝える為に、 地方に 仏陀の話を広げて行ったのです。

行脚とは、 そういう事から始まったのです。

また竹林精舎の中では 修行僧が心の修行をしますが、 どうしても体を常に清潔にすることはしませんから、 体臭がかなり きつかったと言われています。

そしてある僧が、 お香を発案し、 ブッダに認可してもらいます。

それが お香の始まりで、 決して 死んだ人に対して お香を焼くものではありませんでした。
体臭の 匂い消しだったのですね。

どうしても 嫌な匂いを嗅ぐと 五感の臭覚が刺激を受けすぎて 心が揺らいでしまうために、 臭覚の影響が 修行の妨げに成るからです。 本当はこれをも 解脱しなければならないものですが。

この様にして、 ブッダは多くの修行僧と共に、 心の研鑽に 励んでおられました。

そして当時 ブッダはインド語である 「 古代インスクリット語 」 で話されていましたが、 この言葉が 中国に行き、 漢字に置き換えられ、 その後 日本に 辿り着く事になります。

中国の人々は インスクリット語 を理解する事が 当然 出来ませんので、 中国において仏典は、 漢字で 古代インスクリット語に より近い発音の文字が選ばれ、 それを文字にしたのが 仏典と成っています。 
すなわち 発音を表す 「当て字」 だったのです。
我々が漢字に対して、 おくり仮名や ローマ字を 使うようなものでした。

日本仏教では 訳も判らず、 難しい漢字ばかりを発音し 読誦していますが、 その原型は 古代インスクリット語の言葉で、 インド語であるという事実です。

しかし現在の坊さんは その意味も判らず、 『 ありがたい言葉 』 だと鵜呑みにし、 その音を口に出して 読誦しているにしか過ぎないのです。

ですから 日本に数ある宗派 ( 創価学会も含め全てです ) も襟を正して、 真の仏教に 心を置かなければ成らないでしょう。
今のままですと、 信者を苦しめる 形骸化された 形式仏教で終わることに成るからです。


僧侶は 何の為に僧侶として生きるのか? という命題があります。

訳も判らない、 自分でも理解していない 漢字の発音をするだけで、 僧侶としての命が あるのでしょうか?

また 何とか○聴さんのように、 文学を志した後 仏門に入り、 そして 『 笑いなさい 』 という ありがたいお言葉で 多くの人々に笑いを与えるのが その道でしょうか?

そして 何とか○聴さんが言っていたのを テレビで拝見しましたが、 『 あの世は あるんでしょうか? 判りません 』 とありがたく仰るのも、 「 ちょっと待って頂戴よ! 」 と、 言いたくなりました。

これが僧侶になった人の 言葉なのかと思います。  これこそ笑っちゃいます。

「 あの世が判らない。 」

それで一体何を 道に迷った衆生に 話をするのでしょう?

そして 道に迷った人達を どこへ連れて行こうとするのでしょう?

僧侶なる者、 ブッタの話と心を 真摯に聞くことです。

そして 理解出来なくとも、 あの世が 実在する事を 理解出来るまで 追及することです。

この世から見て あの世が実際に存在し 実在しているから、 あの世のことを 「 実在界 」 と言うのです。

逆に言えば、 実在からこの三次元を表現すると、 「 あの世 」 になります。
こんな事は どうでも良いことですが・・・・。

どちらにしましても、 お金儲けに勤しむ前に、 仏門に入りし者は、 しっかりと ブッダの心を 自分のものとして、 心の修行に励み、 迷える衆生を救わなければなりません。

その為に 坊主という職を 与えられているのです。 本来は 必要の無い職業なのです。

坊主が 宗教形式を学ぶために その職業があるのではありません。

この世と あの世の 架け橋をしなければならないのが、 僧侶であり 神官なのです。

そして 一番大切なことは、 「 神様の愛・アガペー 」 を衆生に説き、 自らが率先して 実践して行くことです。

その為にも、 己自身に その実践力と 行動が無ければならないということです。

また 人は死んで 直ぐに 仏に成るものではありませんし、 人間が神様に成るものでもありません。

仏とは 「 悟った方 」 であり、 常に心を 天上界に置いている人達 の事です。
決して 死んだからと言って、 直ぐに人が悟れるのでもありません。
その前に、 今で言う仏になる前に、 しっかりと 反省する必要があるということです。

ですから 生きている時に、 心が 「 仏=悟った人 」 に成ればいいのです。
「 仏 」 とは 死んだ者の 特権ではないということです。

そして、 一番の理想が、 我々一般人間である 「 衆生 」 が、 心を求め 心を正す 生活を続けることです。

その心で、 この三次元の社会の中に、 理想郷 ( ユートピア ) なるものを 創作する事に 他ならないと思います。

夢のような 理想郷ではなく、 人間として人として、 この地球と共に 全ての生命を 生かす生き方が 出来るように、 その社会を作っていく 理由を理解して、 実現する道を 歩くことだということでしょう。

仏門に入るということも、 キリスト教の牧師も 同じことなのです。

そしてその様な職業の方だけが 行い信じるのが、 仏教であり キリスト教ではありません。

全ての人々が、 人間として 生きる道を 理解しなければならないのです。

その理 ( ことわり ) が判って始めて、 この社会が もっとしっかりとしたものに なって行くという事に成ります。


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